昭和50年 以下不明 テープ№50ー121
末永信太郎
惰性(だせい)→①従来からのくせ。今までの習慣。②「慣性」に同じ
・・・にお願いさせて頂きましたら、「惰性に流されるな」ということを頂きました。ね。惰性に流されるな。だんだん信心が、ね、いわば、長く続いておりますと、どうしても、惰性に流される。ああ、こげなこっちゃいかん、こげなこっちゃいかん、と思いながら、一遍、そういう、例えば癖なら癖がつきますと、ね、それを繰り返して、「いかん、いかん」と言いながら、流されてしまうのです。
私は、信心にはね、この、惰性に流されるということが、もう、生き生きとしておかげの受けられないもとになると思うです。自分の心に、もう、生き生きとした喜びは湧いてまいりませんです。ね。ただ、惰性に繋がるおかげは頂いておりましてもです、心の中に、生き生きと弾んだものが生まれて来ないです。
言うなら、日に日にさらと言われるのは、この弾んだ心のことだと思うんです。「さあっ!」という心だと思うんです。ね。ですから、三代金光様が仰っておられる、「日に日にが、さらでございます」と仰った。日に日にさらだということは、普通、並大抵では、頂けることじゃ絶対ないです。必ず惰性に流れます、流されます。ね。言うなら、本気で、まあ、申しますなら、「金光大神の言われることに背かぬように」という生きかたを身につけて行かんと、さらなものは生まれて参りません。
もう、信心のね、先祖のした信心は、もう、本当はつまらんです、値打ちはないです、どんなに良い信心だと言うても。ね。それは、魚やら果物と同じことです。フレッシュであるということが、生命です。野菜でも、お魚でも、果物でも、信心も同じです。だから、いかに、さらなものをです、いかにさらなものを頂く。私ども、御祈念の座に出らせて頂く時にです、今日申しますように、生神金光大神様を、本当に大恩人として、本当に恩人として、これは、今も申しますように、言葉にはどうも表現出来ませんけれども、今までかつてない、生神金光大神様が、何か生神金光大神天地金乃神と、一緒の手繰りに、有り難うございますと言いよった感じがする。ね。
けれども、最近は、その生神金光大神様ということをです、神様からも恩人でお在りになるという事は、まあ、私どもには、まあ、( )はないことですけれども、私どもの恩人、私の恩人。それは、生神金光大神様だという風に、日に日にさらな、もう、本当に、中身のいっぱい、有り難い物の詰まった生神金光大神が唱えられる時です。ね。
これは、私が、金光大神の言われることに背かぬようにというものを頂いておらなければ、こんな新しい、こんな斬新な生神金光大神様へのお礼は言われないと、いつも思います。唱え言葉になり、ね、いわゆる、マンネリ化した生神金光大神天地金乃神では、もう、本当の助かりという事のようには立ちません。そこんところを、いわば、末永先生に神様は教えて下さったんじゃないかと、こう思うです。
ね、だから、これは、末永先生だけのことではない。銘々がそこんところを果たして、生神金光大神と、こう唱えておるが、その中に、天地金乃神様と同じようなことじゃないか、と。なら、その天地金乃神様が、天地に通ずるような天地金乃神様かと言うと、そうでもない。只、言うとるだけ、唱えておるだけである。やはり、本当のことじゃない。ね。
その、さらなものがある時にです、例えば、昨日、私、それを皆さんに、一遍読んで、聞いてもらいたいように思いますけれども、昨日、和子さんがまとめておるその文章が、もう、本当に、もう、やる気充分、生き生きとして、皆さんと掴んでおるところは、ほとんど変わらないです。けれども、本当にそれに取り組んで、行じますというようなものが、その、読み上げる中に感じられたです。
それは、ね、親先生がああ言われるから、神様が願うておられるから、それに、応えさせてもらおうという、いわゆる、やる気充分のものが、そこににじみ出てくるところにです、私は、今日の御理解に、金光大神、まさかの時には助けてくれ、というところに、この生き生きとしたおかげが立ち現れる。
それには、金光大神の言うことに背かぬようにという事は、今日、私が何度も聞いて頂きましたようなです、内容を持つものであり、為にはです、金光大神がああ言われるから、それに、本当に取り組んで行く姿勢というものが、生き生きとしたものが欠けておるのではないか、ということを、今日、私は聞いて頂きました。ね。
最近、私は、生神金光大神が、本当に私の大恩人であるとして、生神金光大神様天地金乃神様と続けた( )には言われない。そういう、まあ、実感と、だからこそ、その大恩人と感じるからこそ、大恩人の言われること、例えば、よし、それが無理であっても、嫌とは言われんという心が、非常に強くなりました思いが致します。ね。
そこにです、生神金光大神様を唱えれば、そこに、生神金光大神様の取次ぎの働きが起こって、天地金乃神様のおかげが受けられるようになる、という事になります。ね。御理解を頂いて有り難いとか、はあ、今まで、初めて聞いたような御理解。はあ、なるほど、なるほど、ということじゃなくて、それを頂く、いわば実行する、「守らせて頂く気、充分」という意欲を持つためにです、ね、生神金光大神、大恩人であるという、ね、言うならば、親先生なかりせばと言うか。ね。
親先生を大恩人として、頂けれる信心。大恩人の言われることに、右左言われん。ね。それこそ、大恩人の言われることであるから、なら、昨日の御理解で言うならば、信心は私の命だ、または、命以上だ。だから、金光大神が命をくれと言われりゃ、命をも惜しまないといったような、大恩人だからこそ感じられる。 その感じられるからこそ、言えれるのです。ね。昨日の御理解を思い、また、今朝の御理解を続いて、こう、頂いて。ね。「素晴らしい・・・」だけではいかん。それを、やる気充分というものが、なからにゃいかん。為には、本当に、親先生をどう頂いておるか、と。貴方の、ね、金光教の信心をです、貴方にとっては、どういうものか、と。
ただ、「おかげを頂くから、お参りしよると」というのじゃなくて、ね、金光大神そのものが、金光大神を私にとって大恩人。「お道の信心は、私の命」と言われるようなものもです、その大恩人を感じて、初めてそれが出けるのじゃないかと思います。ね。
一つ、やる気充分を作らせてもらわにゃいけません。マンネリ化しておる自分に、気付かにゃいけません。惰性に流されておる自分に気づかせて頂いて、ね、いわゆる、本気で金光大神の言われることに背かぬように、というところを、ね、それこそ、泣く泣くでも、一つ、辛抱しなければいけません。
昨日、梅の実会で話したことでしたけれども、ある本を見せて頂きよった。約束は、五分前にというのに引かれました、と。だから、この本を、まあ、読む気になった訳ですけども。ちょっと見せて頂いて、ここんところに目がついた。だから、このことをですね、言うなら、聞いて頂いて。ね。
例えば、一時から始まります、その一時の、どんなことがあってもね、「五分前には」という、これが、あなた方の信条になる。一生涯、それが貫かれたら、素晴らしいことになるだろうと、こう、教えて申しました。約束の五分前。
ね、それが、もう、私の信条だということになったら。ね。五分十分遅れたっちゃ、よかよか、ちゅうごたる信心じゃ。ね。例えば、なら、そういうことがです、ね、親先生がそれを実行しておられる。親先生がそれを、そう願うておられるからと、例えば、恩人であると、本当に皆さんが思われるなら、実行出来ないことはないですね。ね。
私は、朝の御祈念前、三十分前には出る。ね。二時から、私の、昼からの御用の時間ですけれども、一時半には、必ず出る。なら、十二時頃に出ることもある。ね。だから、三十分も一時間前に出ろと言うのじゃない。約束よりも、言うなら心に、神様に、「こう」と誓ったことをです、斬新な、そのやる気充分でです、ね、約束の五分前。
もう、約束の五分前、これは、難しいこっちゃないと思うです。ね。それを、なら、「親先生が言われるから」というようなね、ことを、そういう、やろうと思えば、すぐ出けるような事からね、実行することです。もう、よかよか、御理解に間に合やよか。例えば、御祈念でもよ。ね。
そういう事では、金光大神の言うことに、ずっと背き続けておるということになるのじゃないでしょうか。ね。それは、それが、自分の信条になるのですから、もう、見やすいことになるです。ね。初めの間は、バタバタしました。初めの間は、一生懸命に努力しました。けれども、自分の・・・(途中切れ)